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下記の文章は、映像をアップする際に掲載する予定のものです。


長くなりますが、心を込めて書きました。

お時間ありましたら是非。

 

子どもの頃から、死は身近にあった。

14歳で父親が心筋梗塞で亡くなり、それから立て続けに近しい人がバタバタと亡くなった。

希死念慮という言葉になるけれど、自分の死について考えることが何度もあった。

生という行為が本当に駄目になってしまったとき、死というものは解放してくれるもの、救いのように思えた。

 

ただ、実際に、死を目の前にしたとき、出てきたのは「生きたい」という願いだった。

憧れていただけで、死ぬ覚悟が無かったのだと思う。

 

それから、生きるということはどういうことなのだろうと考え始めた。

生きるとは何なのか。生きていることの意味、価値とは。

 

正直に言うと、まだはっきりとした答えは出ていない。

 

今、世界各地で戦争、虐殺、貧困、差別がある。

自由、尊厳が奪われ、死と隣り合わせの生活を送っている人たちがいる。

その人たちに比べたら、こんなにも恵まれているのに、

生きることに対して何を深く考えることがあるのだろう…と思い直すときもある。

衣食住が保障され、恵まれていること。それは紛れもなく事実だと思う。
しかし、今、伝えたいことに対しては少し適切ではないのかもしれない。

 

何故なら、どんな環境に居ようと、「苦しみ」は少なからず存在し、

それぞれの人独自のものであり、その本人にしか分からないものだと思うから。

 

世界が悲惨な状況になっている今、この胸の中にハッキリしているものがある。

それは、どれだけ困難な状況になっても、「生きてゆく」という選択、行為を重ね続けること

 

ただ、そのためには何か希望のようなものが必要なのだと思う。


何が希望なのか、何がその選択に、生きることに意味を持たせるのか。

そこに正解はなく、不正解もない。それぞれが、自分で見つけ出してゆくしかない。

 

苦しみは、あの耐え忍ぶ時間は、それらを見つけ出すためにある気がしている。

死を間近にして、生きたいと心から願うように。凍える寒さの中、太陽の暖かさを知るように。

 

どんな状況であっても、意味を、希望を見つけ出し、紡いでゆく。生命尽きるまで、重ね続けてゆく。
その選択、行為は、今、この瞬間、生きている人にしか出来ないかけがえのないものであると思う。

 

聞こえが良いように言うならば、意志の力かもしれない。

しかし、根本的なところから観るならば、私たちの内側に宿る「生命の力」であると思う。

40億年という途方もない時間。生き延び続けてきた生命。DNAの結集。

どんな過酷な状況であっても生きてゆくことを止めなかった。その連続。瞬間。瞬間。

今、その最前線に私たちは立っている。
 

どんな世界を望むのか。
子どもたちにどんな未来を残すのか。

「私たちはどう生きてゆくのか」

生命の立場から改めて考え直したい。

世界中の戦争、虐殺、貧困、そして、差別が速やかに終息することを心から願います。

2024年 5月9日 

Ryo Fujimoto | 藤本 亮

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